ライブレポート

山作戰【ライブレポート】

山作戰
2021年12月27日 静岡ROXY
絶望の砂に咲く花ツアー FINAL

髙山真徳、1972年生まれ49歳。熊本から上京したのが1991年。その後、東京で21年に渡り音楽活動をした後、拠点を静岡に移してから今年で10年。髙山真徳が音楽活動をする際に名乗っている山作戰という名には「山は登り方が違っても頂上を目指せば必ず会える」という意味が込められているという。熊本で、東京で、静岡で、山作戰を形成するそれぞれの地での活動を通してひとつの山を登り続けてきた髙山真徳が「絶望の砂に咲く花ツアー」と題した11月から2ヶ月に渡って全16公演開催してきた初の全国ツアー。ツアーは基本的には髙山の弾き語りでの公演であったがツアーファイナルである12月26日静岡ROXYでのライブはバンド形態での演奏だ。メンバーは山作戰こと髙山真徳、ギターはエンドウタカシ、ベースはケイタイモ、ピアノは坂井キヨオシ、ドラムはオータコージ、バイオリンは野尻 弥史矢といった名うてのミュージシャンが集結。最強布陣でのライブを見届けるべく静岡はROXYに足を運んだ。

会場に着くとROXYのフロアが椅子の並んだ後方とスタンディングの前方に分けられていることに気付く。ファン層の広い山作戰のライブには子供から年配の方まで多く集まるという。スタンディングで自由にライブを楽しみたいファンもいれば椅子に座ってゆっくり歌を聴きたいファンもいる。そんな中、12月10日の高円寺HIGHでのライブをバンドセットで行ったことで「スタンディングでライブをしたい」という思いが芽生えた山作戰が考えたのがオールスタンディングならぬハーフスタンディングなのだ。開場時間を迎え徐々に集まるオーディエンスが前方、後方に分かれながら自分の場所を探す姿は2021年のライブハウスの在り方や楽しみ方ともいえるだろう。誰も置いていかない、誰にも不自由させないライブハウスでのライブを作ろうとする山作戰の優しさに触れライブ前にして既に胸がいっぱいになる。

開演時間を少し過ぎフロアに映画『サウンドオブミュージック』の「Climb Every Mountain」が静かに流れる中、ステージにメンバーが登場するとROXYは拍手で包まれた。静岡に活動拠点を移して10年という月日をかけ山作戰がどれだけ地域と密着して音楽をしてきたかがオーディエンスの表情や拍手からしっかり感じられる。ライブはロックンロールナンバー「僕らの時代」からスタート。エンドウの印象的なリフからオータのスネアの連打に雪崩れ込み、ケイタイモの安定感のあるリズムの上で坂井のピアノが躍る。当たり前だけど、バンドだ。もう何処からどう聴いてもバンドだ。これまでもバンドセットでのライブはあったはずだが歌っている山作戰との距離感であったり関係性であったり、それが何かとは言葉に出来ないのだが何かが明らかに違う。「はじめにうたありき」では「僕は歌うためにうまれてきた」と歌う山作戰。葛藤や絶望の上にあるその覚悟と決意が突き刺さる。人生を全うすること、全う出来ないこと、ある。その上で何を選んでどう生きるか。ずっと独りで戦ってきた山作戰がバンドの真ん中に立って歌っている姿は強くも見えるがそれはただただ強い訳ではなく、きっとバンドを組んだことで知った弱さ故の強さなんだと思う。好き勝手叩くオータと負けじとはしゃぐエンドウの横で真っ直ぐ前を見て歌う山作戰。遠慮しないバンドメンバーだからこそこれまでずっと独りで歌ってきた真価が問われるような気がした。だけどそんなメンバーに何一つ負けていないのはやはり山作戰の歌声と声量だ。「あかねさす」ではコーラスなのか祈りなのか「イーーーーーーーーー」という山作戰の歌がエモーショナルな坂井のピアノの上で不気味に鳴り響き、ファルセットと力強さを繰り返しながら展開すると、まるで何かの儀式のようにも感じる不思議な空間にROXYが覆われていく。これはバンドセットでないと感じられない魅力だろう。

エンドウタカシ
ケイタイモ
坂井キヨオシ
オータコージ
野尻 弥史矢

ここでバイオリンの野尻弥史矢を迎え入れ「掻き消された声」を演奏。弾き語りとはやはり全く違う印象を受ける。歌とギターだけで歌うときは言葉がそのままぶん投げられる印象だがバンドで歌うときは本質は何も変わらないままメッセージや言葉のひとつひとつを良い意味で包み込んで届けてくれる。特に「掻き消された声」ではそれが顕著に表れていた気がして、弾き語りで聴くときは山作戰自身の歌なんだけれどバンドで聴くと自分の体験や経験に置き換えて聴く余裕が出来るような気がしたのだ。例えば「幼いころの切なさを呼び起こすのはなんでだろう」という歌詞。個人的な話になるが筆者は小学生時代に静岡に住んでいたことがあり、この歌詞が耳に飛び込んできた瞬間に30年前のことが鮮明に浮かんだのだが、これが弾き語りで聴くときは山作戰自身の出来事として受け止めている気がするのだ。弾き語りとバンドの何が違うのかと言われたらそりゃ全部違うし、じゃあそれが何かと言われたら説明出来ないけれど、今このタイミングでバンドでの演奏に山作戰自身が何を感じ何を掴もうとしているかは非常に興味がある。それはきっと彼の歌をずっと聴いてきたであろうファンのみんなも気になるところではないだろうか。戸惑いも含めて。

「この戦争が終わったら何を大声で叫びあおうか」というメッセージが突き刺さる「フラグ」では涙を堪えることに必死だった。この戦争、この戦い、こんな時代だからこそ色んな戦いがあってきっとみんな何かと日々戦わざるを得ない戦争に巻き込まれている。いつ終わるか分からない。先が見えない。だけど夢を語りたいし笑い転げたい。本来自由な場所だったライブハウスですらその自由が規制され声すら出せない状況が続く。そんな嘘みたいな日々の中で何を歌うか。憂鬱が、悲しみが、絶望が消えたとき、みんなで何を歌えるか、そんなことを考えながら聴く「フラグ」はバンドサウンドも相まって心のずっと奥の方までダイレクトに響いた。自然と手の挙がったオーディエンスの反応も物凄くリアルだった。それがいつなのかは分からないけれど、この先に、僕らの未来に、希望が見えたような気がした。だけど、だけどだ。山作戰はただやみくもに希望を、夢を歌っているだけではない。続く「明けない夜」ではハッとする言葉も並ぶ。「明けない夜はない」という言葉はよく聞くけれど「明けない夜がないこととあなたの悲しみが終わるかどうかを同列に並べて語ることは無責任に思えてしまうんだ」と歌ってくれる山作戰の歌にはリアルよりもリアリティがある。だからこそ、だけどまだ、やっぱり期待している部分があって、夜が明けたときにはみんなで大声で歌いたいなと大好きなライブハウスの中で強く思った。

ここで一旦バイオリンの野尻がステージを降り再び5人での演奏となった山作戰バンド。弾き語りに近い形で歌とギターで始まった「メロウ」はバンドインした瞬間に今日このライブをバンドセットで挑んだ意味のひとつが感覚的はあるけれど分かった気がした。「その先で待とう」という歌詞はきっと違う意味で書かれた歌詞だけれど、先に進むことを選択した山作戰の決意表明に思えてならなかった。誤解を恐れずに書くけれど、これまでの山作戰を観てきたファンにとってバンドでの演奏がどう映っているかははっきり言って賛否両論だと思う。山作戰の楽曲は歌とギターが一番伝わるかもしれないし、山作戰の楽曲の表現を豊かにするのはバンドセットだからかもしれない。どっちが正しいとか、どっちが良いとかじゃない。人生がずっと続いていれば物事は変わっていく。10年前、5年前、1年前の自分と今の自分は絶対的に変っている。その過程で何があってどう変化したか。その上で形は変わっても変わらない部分をどれだけ持っていけるか。今、進化の過程にある山作戰は、山作戰である髙山こそがもがいているかもしれない。だけどそのもがきの先に進化があって、それは「妄夏」をバンドの中で演奏する髙山を観て山作戰が山作戰として何も変わらないために変らないといけない時期なんだろうと思った。ライブ本編最後には山作戰流ライブハウスアンセムともいえる「木曜日にあいましょう」を披露。全国ツアーを回って、そのツアーのファイナルをバンドセットで迎えた山作戰が各地のライブハウスで見てきたもの、感じたことがこの曲に宿っているように感じた。49歳の転換期、山作戰の心の叫び。刺さらないはずがない。

アンコールでは「たとえばさ」「人生がおわるとき思い出してしまう」を弾き語りで演奏した山作戰。やはり弾き語りになるとその言葉はダイレクトに届くことを再確認する。これが山作戰の強さでもあるし、その上でバンドセットに挑む彼のこれからがどうなっていくか本当に楽しみだと思った。積み重ねてきたものがしっかりとあって、だけどまた全く違う打ち出し方で音楽を届けようとしている今の山作戰に今日のライブを目撃した人は何を見たか。答えはまだないと思うしきっと答えなんかない方が良いんだと思うけれど、それは2022年の山作戰が音楽で証明していってくれるんだと思う。「絶望の砂に咲く花」を再びフルメンバーで演奏する山作戰はもうすっかりバンドだったし、進化の過程でありながら進化の先の姿も垣間見れたような気がした。2021年、この曲をバンドでレコーディングする過程できっと何かを掴んだ山作戰が、この曲を引っ提げツアーを回りながら、1人で歌う日とバンドで歌う日を繋いできた先にある今日という日。そしてこれからの山作戰。楽しみでならない。静岡という街で彼が紡いできたものを確認出来た夜だった。

text by 柴山順次
photo by 高田将史

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